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東京高等裁判所 昭和55年(う)1892号 判決

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

控訴趣意第一点(原裁判所は不法に公訴を受理した旨の主張)について

所論は、原判決が、本件捜査及び公訴提起が憲法一四条の法の下の平等の原則及び同法三一条の適正手続の保障等に違反していることを理由とする弁護人からの公訴棄却の申立に対し、審理を尽さないで事実を誤認した結果これを棄却したが、これは原判決が本件捜査及び公訴提起手続上の事実を誤認し、その法的解釈判断を誤つた結果、憲法一四条、同法三一条に違反する違法を犯したものである、というのである。すなわち、本件を含む「富マッサージ」の関連事件は、暴力団員でいわゆるポン引と称されている直井曻一が通行人に対し売春の勧誘を行い、マッサージ師見習の千景こと金英順を周旋し、同女をして旅館「智恵」で売春させたとして逮捕されたことに端を発したのであり、被告人らが経営ないし勤務している旅館である「よねやま旅荘」が事件発覚の端緒となつたものではない。そして、右直井の供述に基づき、右金英順を雇用していた「富マッサージ」の経営者である石野公枝が逮捕され、右石野の住居が捜索された結果、同女作成にかかる日計表等が押収され、それに基づいて、司法警察員西田直高、同荻原嘉雄が「マッサージ師見習別稼働一覧表」及び「マッサージ師見習旅館等別呼上げ一覧表」を作成し、これによりマッサージ師見習の派遣された旅館やホテルの名前やその呼上げ回数が判明したので、本件捜査を担当した渋谷警察署が、その後連日のようにマッサージ師見習らを取り調べたところ、同女らの供述から、右旅館等の関係者中には、暴力団と関係のあるもの(ハイネス、ハイランド、ユートピア、智恵等)、「富マッサージ」と専属の特別契約を結んでいたもの又は連絡を密にしていたもの(智恵、ハイネス、ハイランド、ユートピア、プリンセス、円山、太陽等)、いわゆる「オトシ」を多額に取つていたもの(ニュー渋谷、オリエント等)、既に売春場所提供に絡み警察沙汰になつていたもの(円山、太陽)等々悪質な業者が多数含まれていることも明らかになつた。ところが、被告人らの「よねやま旅荘」についてはこのような事情は全くなく、同旅館は僅か九部屋という下宿屋まがいの経営形態で、主として銀行員や家族連れなどが宿泊し交番の巡査までが安心して同館に宿泊客を紹介しているといつた実情であつたにもかかわらず、事件に関係のあつた旅館等の関係者中右「よねやま旅荘」の被告人品田貞子(以下、被告人貞子という。)だけが売春の場所提供の容疑で逮捕・起訴され、前記「日計表」により明らかとなつた渋谷界隈の二十数軒の他の旅館等の関係者、とりわけ前記のような悪質な旅館等の関係者までが全く不問にされ、罰金刑の対象にすらならなかつたのである。そして、被告人貞子、同大味すい(以下、被告人大味という。)及び同品田金市郎(以下、被告人金市郎という。)らの「よねやま旅荘」関係者のみならず、他の旅館等の関係者についても、売春を行うことを知りながら売春を行う場所を提供したという事実につき、警察が原判決の説示する検挙・送致を可能にするだけの証拠を収集するについての条件は同じであつたわけであるから、仮に「知情」という主観的側面に関する証拠を収集するために、被告人貞子を逮捕する必要があつたとするならば、他の旅館等の経営者ないし従業員らもまた逮捕されなければならなかつたはずである。しかし、同被告人以外にはかかる捜査はなされなかつたのであるから、このような渋谷警察署の本件捜査は恣意的かつ差別的な違法捜査というべきであり、これに迎合してなされた、捜査権の不平等な行使及び不平等な訴追裁量に基づく、被告人らに対する本件各公訴の提起が憲法一四条、同法三一条、刑訴法四一一条の趣旨に反することは明らかである。そして又、渋谷警察署の本件捜査が恣意的かつ差別的で違法であることは原審で取り調べた各証拠によりほぼ明らかであるが、更にこれを明確にするため、弁護人は、原審において、本件捜査担当の責任者であつた渋谷警察署司法警察員西田直高の証人尋問請求など合計三五点に上る多数の証拠申請を行つたのであるが、原審は悉くこれらの申請を却下し、「本件捜査に当たり同署がことさら他のホテル等に手心を加え、偏頗な取扱いをしたとは速断できず、弁護人の所論は単なる憶測の域を出ないものというほかない。」と判示し、弁護人の右主張を排斥したのであるから、原判決には公訴権濫用の基礎となる事実関係につき審理不尽に基づく訴訟手続の法令違反及び事実誤認が存するほか、憲法一四条、同法三一条の法的解釈判断を誤つた違法がある。以上のとおり、本件各公訴の提起は、捜査権の不平等な行使及び不平等な訴追裁量に基づきなされたものであるから、憲法一四条、同法三一条、刑訴法四一一条の趣旨に反し、これが棄却を免れないことは明白であるにもかかわらず、原審が本件各公訴を棄却することなく、被告人らに対し有罪の実体判決をなしたのは、不法に公訴を受理した違法を犯したもので、原判決は当然破棄されるべきである、というのである。

そこで、まず、凡そ検察官による起訴独占主義及び起訴便宜主義を建前とする現行刑事司法の基本構造の下で、検察官の訴追裁量権の逸脱が公訴の提起を無効にならしめ、受訴裁判所による公訴棄却の判決を招来する場合があるかどうかにつき考察するのに、「検察官は、現行法制の下では、公訴の提起をするかしないかについて広範な裁量権を認められているのであつて、公訴の提起が検察官の裁量権の逸脱によるものであるからといつて直ちに無効となるものでないことは明らかである。たしかに、右裁量権の行使については種々の考慮事項が刑訴法に列挙されていること(刑訴法二四八条)、検察官は公益の代表者として公訴権を行使すべきものとされていること(検察庁法四条)、更に、刑訴法上の権限は公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ誠実にこれを行使すべく濫用にわたつてはならないものとされていること(刑訴法一条、刑訴規則一条二項)などを総合して考えると、検察官の裁量権の逸脱が公訴の提起を無効にならしめる場合のありうることを否定することはできないが、それは例えば公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限られるものというべきである。」そして、「すくなくとも公訴権の発動については、犯罪の軽重のみならず、犯人の一身上の事情、犯罪の情状及び犯罪後の情況等をも考慮しなければならないことは刑訴法二四八条の規定の示すとおりであつて、起訴又は不起訴処分の当不当は、犯罪事実の外面だけによつて断定することができないのである。このような見地からするとき、審判の対象とされていない他の被疑事件についての公訴権の発動の当否を軽々に論定することは許されない。」(最高裁判所昭和五二年(あ)第一三五三号同五五年一二月一七日第一小法廷決定参照)と解するのが正当というべきである。よつて、更にすすんで、訴訟記録に当審における事実取調べの結果を併せて考察するのに、本件を含む「富マッサージ」の売春防止法違反事件は、いわゆるポン引と称されている直井曻一が通行人に対し売春の勧誘を行い、マッサージ師見習千景こと金英順を周旋し、同女をして旅館「智恵」で売春させたとして逮捕されたことに端を発したものであり、被告人らの「よねやま旅荘」が事件発覚の端緒となつたものではないこと、「富マッサージ」の経営者で右金英順を雇用していた石野公枝が逮捕され、同女の説明とその作成にかかる日計表等から、「富マッサージ」のマッサージ師見習(いわゆるパンマと称する売春婦)が派遣された渋谷界隈の多数の旅館等の名前や呼上げ回数が判明したこと、そして、捜査を担当した渋谷警察署がマッサージ師見習らの取調を行つた結果、暴力団と関係があるもの、「富マッサージ」と特別契約を結んでいたもの、いわゆる「オトシ」と称する謝礼を多額にとつていたもの等々悪質な旅館等が数多くあることや、「富マッサージ」のマッサージ師見習が派遣され売春行為に及んでいたこれら二十数軒の旅館等の中には、マッサージ師見習らの呼上げ回数においても、いわゆる「オトシ」の金額についても被告人らの「よねやま旅荘」よりはるかに多いものが含まれていることが判明したのに、右旅館等の関係者の中で逮捕されたのは「よねやま旅荘」の被告人貞子だけであり、起訴も同旅荘の関係者のみに対してなされ、他の者については、略式命令の対象とされたことも明らかでないことはいずれも所論のとおりであり、又、被告人らはこのため、昭和五五年二月一四日前記石野公枝作成の「日計表」及び司法警察員西田直高ら作成の「マッサージ師見習別稼働一覧表」等に基づいて、極めて悪質又は呼上げ回数の極めて多いと考えられる旅館経営者一〇名を売春防止法違反容疑で渋谷警察署に告発したが、東京地方検察庁は同年一〇月一六日付で、一部既に略式請求を受けている者を除きすべて不起訴処分とした旨告発人に通知してきたことは当審において取り調べた告発状控、不起訴処分通知書及び同封筒により明らかである。

しかしながら、原判決挙示の関係各証拠によると、被告人ら三名の原判示売春防止法違反の事実は後に説示するとおり優にこれを肯認しうるところであり、これによれば、被告人らは昭和五三年六月から同年八月までの間の原判示の約二か月余りの間に、「富マッサージ」に所属するマッサージ師見習(いわゆる「パンマ」と称する売春婦)のみゆきこと仲田英子ほか四名が、「よねやま旅荘」の客室において、遊客坂井三郎ら延べ約三九名を相手客として、合計三九回の売春をするに際し、その情を知りながら、同旅館の客室を右仲田らに使用させ、もつて売春を行う場所を提供することを業とした、というものであり、しかも、右各証拠によると、被告人貞子及び同大味は、右仲田らいわゆるパンマに売春のため「よねやま旅荘」の客室を利用させるごとに一回につき五、〇〇〇円のいわゆる「オトシ」と称する謝礼を受領して分配していたもので、その合計額は原判示犯行についてだけで二〇万円近くになること、被告人貞子は、昭和五二年四月ころ夫の被告人金市郎から「よねやま旅荘」の営業一切を任された後はいわゆるパンマを抱えたマッサージクラブと手を組み電話連絡によりパンマを呼び上げ、売春の場所を提供することを業とし、右「オトシ」による収入が月一四、五万円に上つていることが明らかであつて、以上のような原判示犯行の罪質、態様等に微すると、本件は明らかに起訴猶予を相当とするような軽微な事案であるとは到底認め難く、検察官の本件各公訴提起が不当であるとは当然にはいわれないのである。

所論は、「富マッサージ」のマッサージ師見習による売春行為の場所となつた渋谷界隈の多数の旅館等の中には、暴力団と関係のあるもの、「富マッサージ」と専属の特別契約を結んでいたもの、いわゆる「オトシ」を多額に取つていたものなど、「よねやま旅荘」に比してはるかに悪質なものや、マッサージ師見習の呼上げ回数の極めて多いところが数多く存在するにもかかわらず、これらはいずれも強制捜査の対象ともならず、又起訴もされることなく不問に付されたのに対し、ひとり「よねやま旅荘」の被告人貞子のみが逮捕され、その関係者である被告人らだけが起訴されるに至つたのは、捜査を担当した渋谷警察署が恣意的かつ差別的な違法捜査を行つたからであり、したがつてこれに迎合してなされた検察官による本件各公訴提起は憲法一四条、同法三一条等に違反し無効である、と主判旨張するのであるが、公訴権の発動については、前段説示のように、犯罪の軽重のみならず、犯人の一身上の事情、犯罪の情状及び犯罪後の情況等刑訴法二四八条の規定する事情が考慮されるべきであるほか、これとは別に、原判決も適切に判示するごとく、犯人を検挙、起訴しうるに足る証拠が十分であつて有罪の立証が可能かどうかの観点からも慎重な判断を要するのである。特に、本件のような売春の場所提供の事案においては、旅館等の経営者又は従業員がマッサージ師見習による売春の行われることを知つていたかどうか(いわゆる知情)という主観的側面についての証拠の収集の有無が、起訴不起訴を決定するに際し重要な要素となるのであるから、起訴又は不起訴処分の当不当は、犯罪事実の外面だけによつて断定することができず、したがつて、審判の対象とされていない他の被疑事件についての公訴権の発動の当否を軽々に論定することは許されないのである。換言すれば、他の同種事案についての検挙、起訴がないという表面的な結果だけから、検察官が当該事件については訴追裁量を逸脱して公訴を提起したものであると即断することはできないのである。

いまこの点を本件についてみるのに、被告人ら三名の取調など「よねやま旅荘」関係の捜査を担当した、警視庁防犯部保安第一課風紀係勤務で渋谷警察署に派遣された警察官荻原嘉雄、同河野稔の原審各証言によれば、「富マッサージ」経営者も石野公枝の管理売春の捜査がほぼ終わつたころ、同女作成の日計表等から「富マッサージ」所属のマッサージ師見習が売春していたことの明らかになつた渋谷界隈の旅館等二十数軒の中で、呼上げ回数が多く、しかもいわゆる悪名の高いところや、あるいは経営者若しくはそれに準ずるものが売春の場所提供に直接関与しているところとか、売春の相手になつた遊客が特定できたところなどに重点を置いて捜査を行つた結果、「よねやま旅荘」については、マッサージ師見習による売春行為が合計三九回に及び、かつ、一回につきいわゆる「オトシ」五、〇〇〇円と電話代を徴収しており、「オトシ」の額も他の旅館等と比較して決して低くはないうえ、マッサージ師見習の取調べの結果、例えば被告人貞子から「お客さんは童貞だからよく面倒みてやつてちようだい。」と言われたり、衛生サック(避姙具)を貰つた、という供述が得られ、同被告人らのいわゆる知情の点について手がかりが得られるとともに、同旅荘の事実上の経営者と思われる同被告人が直接売春行為に関与していることを示す具体的な証拠が明らかになつたことに加えて、マッサージ師見習の売春の相手方となつた遊客坂井三郎が特定できたことなどから、強制捜査に踏み切つたもので、特に、「よねやま旅荘」だけを恣意的に差別したわけではない、というのであり、しかも、右荻原証言に表われたマッサージ師見習のあきこと佐藤紀子、みゆきこと仲田英子及び遊客の坂井三郎の各供述調書の内容が右荻原証言と符合することに徴しても、「よねやま旅荘」につき強制捜査に及んだ際の捜査担当者の証拠の収集状況は同証言のとおりであると認められるから、以上のような本件捜査の経緯と前記認定のような原判示犯行の罪質・態様等を考え合わせると、被告人貞子について強制捜査が行われたのも不当とはいわれず、その結果立証の見通しについて確信を得た検察官において本件各公訴を提起するに及んだのも十分理由のあるところというべきであつて、それが憲法一四条の法の下の平等に反するとか、同三一条の適正手続の保障等に違反しているとかいう事実は認められないとともに、職務犯罪を構成するような極限的な場合に当たるともとうてい考えられず、したがつて、本件は検察官の訴追裁量権の逸脱(公訴権濫用)に基づく公訴提起の無効を考える余地のない事案であることは、原審が取調べた証拠によつて既に明白であるから、原審がそれ以上に、恣意的かつ差別的な起訴であることを立証する趣旨で弁護人から取調べ請求のあつた各証拠をいずれも取り調べることなく、被告人ら三名に対し有罪の実体判決をしたのは正当というべきであつて、原判決には所論のような審理不尽に基づく訴訟手続の法令違反も事実誤認の違法も存在しない。

(なお、所論は、被告人らが、昭和五五年二月一四日、マッサージ師見習の呼上げ回数の極めて多いものか又は極めて悪質と判断した旅館経営者一〇名を渋谷警察署に売春防止法違反容疑で告発したところ、同警察署及び東京地方検察庁は格別の捜査をすることなく、同年一〇月一六日付で、一部既に略式請求を受けている者を除きすべて不起訴処分にした旨を告発人に通知してきたが、右通知書には不起訴処分日につき原判決を待つてこれをしたように改ざんした形跡があるうえ、被告発人一〇名のうち右通知書がないもの、重複したもの、被告発人の表示を誤つたもの、起訴された事実のない者を起訴した旨付記されたもの、東京地検の押印のされていないものなど全く杜撰な通知書が多く、これからしても、本件捜査に当たり同警察署がことさら他の旅館等に手心を加え、偏頗な取扱いをしたことは明らかであつて、「弁護人の所論は単なる憶測の域を出ない」とする原判示は不当である旨主張するのである。なるほど、右通知書には不起訴処分日を訂正して日時を遅らせた形跡があり、又所論のいうような記載の誤りが見られることは指摘のとおりであるが、それだからといつてそれらの片々の事実のみによつて、直ちに、東京地検等が告発事実につき格別の捜査をしなかつたとか、被告発人らの経営する旅館等に手心を加えて偏頗な取扱いをし、被告人らのみに不利益な処分をしたと推認できないことはいうまでもない。)

以上説示したとおり、本件各公訴提起の無効を主張し、これを容れなかつた原審の措置の違法をいう所論はすべて失当というべきであつて、原判決が弁護人の公訴棄却の主張に対して説示しているところは結局これを肯定することができるから、原裁判所が不法に公訴を受理した旨の論旨は理由がない。〈以下、省略〉

(四ツ谷巖 高橋省吾 仙波厚)

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